【知道中国 431回】一〇・八・仲四

   ――やはり歴史と伝統には逆らえそうになく・・・

   『クルス『中国誌』』(ガスパール・ダ・クルス 講談社学術文庫2002年)

 明の年号でいう嘉靖三十五(1556)年の正月、福建沿岸で覇を唱えていた倭寇は攻撃の矛先を浙江に転じ、さらに内陸部にまで押し込んだ。とはいえ彼らが本当に倭(日本人)であったという明確な証拠はない。一方、2月の山西をきっかけに、陝西、山東、湖南、湖北、南京は地震に襲われ、年末には北方から韃靼が長駆南下し、遼東を掠め西して陝西を討った。朱元璋が明朝を樹ち立ててから約200年。さすがの明朝も盛時を過ぎ爛熟期に入り、やがては衰亡への道を歩く。明朝滅亡までほぼ100年となったこの年、ドミニコ会士ガスパール・ダ・クルスは短期間ながら中国を訪れる。
この本は、その折の記録である。

 彼は南方の玄関として古くからイスラムや西欧世界への窓口として開かれていた広州とその周辺を歩き、当時の中国社会のありのままの姿を記録に留めた。

■人々は浪費家であり、食べること飲むこと着ること、そしてその他の家庭の営み、どれにおいてもこの上ない贅を凝らしている。わけてもその大食漢ぶりは大変なものだ。誰しも生計を立てることに懸命なゆえんである。

■この地ではいかに低劣なものであれ、捨ておかれるものなどなにもない。なにしろ犬の骨ばかりでなくあらゆる動物の骨を活用するのである。彼らはこの骨からおもちゃを作ったり、象牙の代わりとしてこれに磨きをかけ、・・・飾物に据えつけたりする。

■もっとも一般庶民の挨拶の言葉といえば『チファン・メザン』(吃飯没有)と言い交わすだけのことである。貴殿は食べたか、それともまだか、というのがその意味である。この世における彼らの幸せは、もっぱら食べることに帰着するのである。

■誰しもできる限りの方策によって他人を欺こうと懸命であるので、他人の秤および分銅を信用するものはいない。・・・商品にできる限りいんちきを施すことにこれ努め、そうして買い手を欺く。このような悪事を習慣としてきたため、彼らにはそうすることで疼くような良心はない。

 ――上は皇帝の結婚、官僚の生態から下は乞食の日常生活に至るまで、じつに興味深い観察が記されているが、なかでも著者自身が「本章は注目に値する一章」と特記する「第20章 死刑を宣告された者たちについて」は、確かに「注目に値する」。

 獄中では多くが「あるいは飢えのため、あるいは寒さのため、あるいは例の笞打ちのために」死ぬそうだが、「獄中で誰かが自殺したり死亡したりすると、中国の規定に従い、これを厠に放りこみ三日間放置する。そこでネズミがこれを食い荒らす。中国には一部に空腹のあまりそのネズミを食らう囚人もいる。前記の三日間が経過すると(役人がやってきて)死体の脚に輪縄をひっかけ、野原のほうへ開けた牢獄の外門までそれを引き摺ってゆ」き、「鉄張り棒で死体の尻を三発きつく殴」る。やがて「生の兆候は認められず、死んでいることは確かである」と認められた死体は、「ごみ捨て場に投棄」されるのであった。「いかなる者も死んだふりなどできぬよう」、ここまで徹底しなければならないのだ。

 そりゃそうだ。如何に豪の者でも、死んだふりして糞尿に3日間も、まして死体を食らうネズミの攻撃を受けながら漬かってはいられまい。ところで話は飛躍するが、現在の中国の刑務所はどうなっているのだろうか。あれこれ想像するのだが、まさか・・・。  《QED》