【知道中国 404回】 一〇・六・仲五
――中国共産党孫呉県教育委員会と楽海演歌庁

   愛国主義教育基地探訪(4-12)

 インターネット接続サービスはともかくも、昨年の河北旅行では行く先々の街角で看板を見かけないことがないほどにポピュラーな足療ビジネスだったが、孫呉ではみつからない。だいいち、足療ということばすら通じない。ということは足療というというサービス産業にとっての前提条件が、まだ孫呉では整っていないということだろう。このビジネスを成り立たせるためには、一方に観光客を含む足の疲れを癒したいという不特定多数の“欲求”があり、一方にそれに応じるだけの多数の若い女性(別に若くなくても、男でも構わないが・・・)が存在するという一種の需給関係が成り立たなくてはならない。

 たとえば河北では唐山、秦皇島、遵化、承徳と毎晩通った足療店の女性従業員に出身地を尋ねたが、その殆どが現金収入の道を求めて他所から流入してきていた。遥か西の四川出身の娘もいたほど。カネを貯めたら、もっと大きな街に移って小さくてもいいから商売を始めて一旗挙げたいとか、中国を飛び出し外国で外人と結婚したいとか。ともかくも“上昇志向”に満ち溢れた娘さんたちだった――やはり、このビジネスは不特定多数の客と次から次への投入される若い女性、つまり流動人口という前提条件が必要なはず。どうやら孫呉という街では、その前提条件がまだ整ってはいないということのようだ。

 さて翌朝である。

 じつは日本でも外国でも初めての街では、前夜、いかに呑もうとも、兎も角も早く起きて朝の街を歩くことを常に心がけてきた。それというのも、女性と同じ。街もまた夜は厚化粧し身構えているから、素顔がみえてこない。方角が読めないし、距離感も掴めない。そこで、いま街のどの辺にいるのかも判らない。その上、夜の街では老人と子供の生態に接することはできない。孫呉が小さな街であっても事情は同じ。かくて二日酔い気味の頭のまま、何はともあれ朝の街に飛び出した。

 寒い。もうすぐ5月だというのに寒い。気づいたことをメモしようとしたが、手がスムースに動かないから、息を吹きかけた。よく見れば、黒い土の下には溶け残った雪がみえる。どうりで寒いはずだ。大袈裟ながら、思わず「酷寒零下は40度・・・守る関東健男児」と口ずさむ。

 ホテルを出て駅へのメイン・ストリートを商店の看板を見ながら進む。間口2メートルほどの店ながら、遠大家具城、石氏精品?城、永発厨具灯具商城、衆環灯飾城、恵中鞋城、美倉内衣城、平価商城と、軒並み店名に「城」がつくのが可笑しい。さすがに白髪三千丈の民、とはいうまい。起業に賭ける意気込みというものだろう。

 それしても漢字というのは不思議な文字だ。改めて看板を眺め直すと、じつに汚く感じられる。白い紙に黒々と書かれた漢字には確かに美だが、赤や黄色の原色の地に白や赤で書かれた漢字は醜であり愚だ。目がチカチカして気分が悪くなる。そのうえ、看板に書かれた漢字が草書体など筆跡鮮やかであればあるほど汚く見えてしかたがない。墨痕鮮やかならぬ、墨痕劣悪・墨跡愚劣。

 さらに進むと小さな携帯電話販売店に挟まれ、中国共産党孫呉県教育委員会と記された真鍮板が下がっている。見上げると、「二楼 楽海演歌庁」のハデなの看板だ。  《待続》