【知道中国 375回】 一〇・四・初六
――「天」に代わって不義をなす

『天壇』(石橋丑雄 山本書店 昭和32年)

 著者は「はじめて北京の地図を見る人は、その外城の南際に沿つて、天壇と記された広大な一郭の画然として存することに奇異の感を抱くであろうが、しかも足ひとたびこの旧都に踏み入つて、親しくその実観に接するに及んでは、更にその壮大まことに言外に絶する大景観に、誰しも三嘆相禁ずる能わざるものを覚ゆるであろう」と、天壇の位置とそれに接した時に誰しもが抱くことになるだろう第一印象を綴る。

 中華人民共和国が北京を首都と定め、燕都・北京を象徴する城壁をまるで「封建遺風を徹底的に破壊すべし」とばかりに撤去する以前、北京は大きく2つに分かれていた。紫禁城を大きく取り囲むように設けられた城壁の内側を内城といい、清朝時代、ここには官衙が置かれ近衛軍の八旗兵が駐屯していた。いわば大帝国の行政の心臓部であり、絶対不可侵の存在である聖なる天子を守護する場所であった。この内城から南に張り出すように設けられた城壁の内側が庶民の街たる外城。天安門広場の南に立つ前門が内と外の城を分ける境目ということになる。因みに中国語で城は街・都市を意味し、日本の城とは異なる。

 天壇とは「外城の南際」、つまり往時の北京の最も南の端にあり、「三層の大円壇上に紺青瑠璃瓦の甍を美しく反映して、天空高く聳え立つ祈年壇」と「これに連なつて築かれた純白大理石造りの圜丘の大祭壇と」で構成された一種の聖域であり、著者は「天命を奉じ、敬天愛人を標榜して中華の大帝国に君臨した天子が、その特殊なる徳治主義の下に天下帝国を理想とした、上下五千年に亙る中華徳治主義の思想的焦点」と説く。

 著者は「昭和十五年北京特別市公署在職中、皇紀二千六百年の祝典に際し、在外文化功労者として外務大臣の表彰を受けました時」、「その表彰に報ゆることを思つて」「紫禁城と諸壇廟との実態調査」を「企図した」。だが「俄然敗戦に際会し」、「調査研究の資料全部は、約二万冊の蔵書と共に、北京に残したまま」。幸いにも「天壇関係資料の一半は北京出発の時に行李の一隅に入つて」いた。そこで「戦後の十年間を謹慎と反省の意味で・・・田舎で、農耕生活を過ごしつつその間に」纏めたのが本書ということになる。

 ところで、著者はなぜ「戦後の十年間を謹慎と反省」で過ごしたのか。「私は戦時中北京に於いて色々なことに関係したことを顧みて」としかいっていないが、その「色々なこと」に大いに興味が湧いてくる。

 本書の出版に至るまでの経緯はともかく、著者は中華帝国の皇帝が皇帝であることを親ら天に告げ天を祭る場である天壇の姿を、建物から祭器や楽器の細部に至るまでを多数の詳細で鮮明な写真で示し、天壇制の沿革、祀天の歴史などを広範な史料を基に考証し、歴代支配層が天をどのように捉えてきたかを解き明かそうとする。

 著者によれば中国の歴史とは、「天」に属する天子=皇帝を中心とする士大夫治者階級と、「地に属する農民を主体とするいわゆる庶民の被治者階級との対立に終始する」ものであり、前者が「礼」を背景に天下を治めようとしたのに対し、後者は「専ら俗に従つてその生を楽しむの風の下に終始してきた」。中華帝国とは「庶民の被治者階級」が「殆んど治者搾取の対象としてのみ取り扱われ、悲惨なる施政に虐げられて来たのであった」とのこと。ならば、中華帝国と現在の共産党中国との間に如何ほどの違いがあるというのだ。  《QED》