【知道中国 368回】 一〇・三・念三
 ――嗚呼、無惨なり戦闘的友誼

 『中羅両国人民的戦闘友誼万歳』(人民出版社 1971年)

 1971年6月1日、ニコラエ・チャウシェスク書記長夫妻を筆頭とするルーマニア共産党・政府代表団は中国共産党・政府の招待を受け北京を公式訪問。
 「毛主席と彼の親密な戦友である林彪副主席」と会見する他、数々の公式行事を行い、9日に「発展する現下の国際情勢は、ますます各国人民に有利に、アメリカ帝国主義と一切の反動派にとって不利に展開しているという認識で双方は一致した。目下のところインドシナは全世界人民の反米闘争にとっての主要な戦場であると、双方は指摘した。断固としてヴェトナム、カンボジア、ラオスの反米救国戦争を断固として支持することを、双方は重ねて言明した」との文言を盛り込んだ「中国羅馬尼亜聯合公報」に調印した。因みに羅馬尼はルーマニアの漢語表記。

 この本は、一連の公式行事における双方の公式挨拶や声明を纏めたもの。いま読み返せば、なんとも古色蒼然として無味乾燥極まりない友好万歳式の文言から、当時の“兄弟党”という関係が醸し出す異様な政治情況が浮かび上がってくる。同時に、21世紀初頭の現状と余りにも隔たっていることに、時の流れの速さと国際環境の激変を痛感せざるをえない。

 ところで、なぜチャウシェスクでありルーマニアなのか。じつは内に超過激な文化大革命を抱え、外に向かってはソ連社会帝国主義反対を叫んでいた当時の中国は、世界の社会主義陣営においては孤立していたのだ。その孤立を“糊塗”すべく、北京はルーマニアとアルバニアの両国共産党と“兄弟党の固い契り”を盛んに内外にアピールしていた。チャウシェスクもまた自らの独裁体制を強固にすべく文化大革命を熱烈に支持していた。

 公式行事のハイライトである「毛主席と彼の親密な戦友である林彪副主席」とルーマニア代表団との「心からなる会見」に陪席した北京側要人は周恩来、康生、黄永勝、姚文元、李先念――これが当時の北京上層の権力序列ということになる。

 その場で毛沢東は「ルーマニアの同志に対し喜びを込めて『同志諸君、御機嫌よう。
諸君のさらなる健康を切望します。団結して帝国主義と一切の反動派を打倒しようではないか』と語り、これに対しチャウシェスク同志は『ルーマニア共産党と我国人民を代表し、閣下に熱烈なる敬意を表します』と応じた」だとサ。なんとまあ大仰なこと。笑止千万だ。

 6月8日、チャウシェスクは中国共産党と中華人民共和国国務院に対する答礼宴を開いて一連の熱烈歓迎に対し感謝の意を表しているが、夫人を横に立たせたうえで、「ここで私は提案したいと思います。毛沢東同志と同夫人の健康のために、林彪同志と同夫人のために、・・・勤勉で智慧に溢れる中国人民のために、ルーマニア共産党と中国共産党、両国人民の全面的合作協力のために、社会主義と各国人民の合作と世界平和事業の勝利のために、この場に参列する各位の健康のために、乾杯!」と挨拶を結んでいる。

 それから3ヵ月後の71年9月、林彪夫妻はソ連逃亡途中にモンゴルの草原に墜落死(とされる)。5年後の76年9月、毛沢東死去。8年後の89年12月に起こったルーマニア革命でチャウシェスク夫妻は恐怖に戦きながら公開銃殺刑。10年後の91年5月、毛沢東夫人の江青は刑務所で自殺(とされる)。つまり、71年6月の時点で両国の最高権力者の位置にいた3組の夫婦のうち、曲がりなりにも天寿を全うしたのは毛沢東のみ。
確率6分の1。

 この本は、共産党をめぐる権力闘争の栄枯盛衰と神聖喜劇ぶりを物語ってくれる。  《QED》