【知道中国 351回】 十・二・仲一
――文革で舞い上がった道化者たちの末路・・・

 『“文革闖将”封神榜』(陽木編著 団結出版社 1993年)

 それまでは名前すら聞いたこともなかったような人物が権力闘争の最前線に突如として躍り出る。内外からの熱い視線を浴びながら一切の妥協を排し先鋭で過激な姿勢を貫く一方、時に圧倒的な暴力を揮って権力の階段を一気に駆け上る。

 だが、政治情勢・権力闘争の綾に気づくことなく権力を弄ぶ愉しさに翻弄され、いつしか政治舞台から放逐される。文革期のみならず、古来、中国における権力闘争の歴史では極くありふれた光景だ。この本は、文革期に権力という得体の知れない魔物に弄ばれた政治的道化者を「文革闖将」と呼び、彼らが味わったはずの政治的恍惚の一瞬を綴り、侘しく喜劇的な末路を淡々と追う。

 この本が取り上げた文革闖将は、文革初期に理論家として頭角を現した王力。理論誌「紅旗」に拠って過激な理論を展開した関鋒。北京大学造反派指導者で初めて大字報(壁新聞)を張り出し毛沢東から「全国初のマルクス・レーニ主義の大字報」と絶賛された聶元梓(この本では「乱世狂女」と呼ぶ)。精華大学造反派リーダーの蒯大富。北京航空学院造反派リーダーの韓愛晶。元中学校女子教員で北京師範大学革命委員会主任の譚厚蘭。白紙答案の裏に点数で合否を判断する知識偏重の試験制度は反革命だと綴り一躍して教育革命の英雄となった張鉄生。江青の寵愛を一身に受け“幻の江青政権”で大臣に擬せられた京劇役者の銭亮。文化部長だった作曲家の于会泳。元卓球世界チャンピオンの荘則棟。4日だけ外交部長だった姚登山。全国人民代表大会副委員長を務めた元労働者の姚連蔚など。

 彼らの栄光から悲惨へのストーリーは文革の一側面を浮き上がらせ、興味深い。たとえば姚連蔚だが、貧農家庭に生まれ中卒で農民に。解放軍での軍務を終え共産党に入党し西安機械工場では工員から叩き上げて政治指導員にまで上り詰め、「生産突撃手」と「毛主席著作積極分子」という称号を授与されていた。文革がはじまるや西安機械工場造反派指導者に就き、67年9月の死者110人、負傷者290人を出した西安の武闘では自らの組織に赫々たる戦果をもたらし西安での文革指導者として重きをなす。貧農、解放軍兵士、労働者、党員で、そのうえ造反派の指導者とくれば、文革派にとって願っても無い“革命的経歴”の典型だ。そこで、江青ら文革激派は彼を北京に召喚し、中央指導部の一員に加える。

 姚は当時を「中卒レベルの学力で日々国家枢要な大事を処理しなければならないのだから、耐えきれないような重圧だった。立ち居振る舞いのすべてが公式の記録に残される。まるで針の筵に座らされたような毎日を過ごした」と悔恨気味に回想するが、国政の中枢に参画し、考えられなかったような充実感を味わい、権力の甘い蜜を楽しんだに違いない。

 だが76年10月に四人組が逮捕されるや、突如として人生は暗転する。四人組一派として2年半の刑期を務めたが、出獄後の84年には「文革中の重大な誤り」を理由に党籍剥奪。そして失踪。彼の動静は絶えた。まさに一躍千丈・・・一転直下で一落千丈。嗚呼。

 88年春、西安の下町の茅屋で漢方医学書の古典を読みながらヒッソリと暮らす彼をやっと探し当てた著者に向かって、「出獄後、共稼ぎ家庭の留守番から飯炊きまで出来る仕事はなんでもやった。俺は世間の茶飲み話の話題なんかなりたくない。落ちるところまで落ちた人間だし、この世には未練も無い。ただ人生をヒッソリと終えたいだけさ」

 こうみると、「歴史は笑い話だ」という著者の弁を納得せざるをえないだろう。  《QED》