【知道中国 296回】〇九・十・念二
―やはり毛沢東の一生はナゾだらけ・・・

    『真相:毛沢東史実80問』(田樹徳 中国青年出版社 2002年)

 著者は「自序」で「私は毛沢東とその思想研究の専門家ではない」と断ったうえで、1982年から湖南人民出版社で編輯の仕事を続け「毛沢東に関連する原稿を日常的に処理するなかで」、毛沢東に関する“事実”に多くの異論があることに気づかされたそうだ。

 たとえば毛沢東の生家の経済状況についても、貧農、中農、富農と定説がない。毛沢東自身は『中国の赤い星』(エドガー・スノー 筑摩書房 1971年)でスノーに向って「私の父親は貧農」だったが「注意深く節約し、小商売とその他の事業で小金をこしらえ、やっとのことで自分の土地を買いもどし」て「中農」となり、ついには「一家は『富』農の地位を得」たと語っているが、ここにも毛沢東の巧まざる演出と演技が隠されているように思える。つまり貧農だったといえばウソになる。だが正直に富農だったといってしまったら、地主打倒を掲げる革命家の出身環境としては些か、いや大いにヨロシクない。そこで毛沢東の生家は貧農から中農を経て富農へとホップ・ステップ・ジャンプと3段階を経たとする。すべては父親である毛貽昌の不断の努力と並外れた才覚の結果、つまり自力更生がもたらしたものということにすれば万事が目出度く解決する。それというのも自力更生こそ毛沢東が全人民に要求した理想の生き方だったはず、だから。

 毛沢東の最初の結婚は8歳とも14歳ともいわれているが、相手の名前も楊氏、李氏、羅氏と諸説紛々。江青との結婚日時についても曖昧模糊としたまま。いったい一生のうちに何人の女性を妻としたのかも必ずしも明らかにされてはいない。ところが『中国の赤い星』において毛沢東は「正真正銘の一夫一婦論者」ということになっている。「正真正銘の一夫一婦論者」が繰り返す結婚・離婚という振る舞いを、さて、どのように解釈すべきか。

 このように毛沢東の生涯にまつわる諸説紛々として定まらない問題を80ほど取り上げ、著者は多くの研究書、回想録、記録などを比較考証しながら結論を導いてゆく。

 たとえばアメリカの某研究者は「71年秋、毛沢東は宿とした上海の邸宅で戦闘機の機銃掃射を受けた」とする。もちろん、この見解の前提には林彪らによる毛沢東暗殺計画がある。毛の乗った専用列車は71年9月10日18時10分に上海に到着し翌日13時12分に南京に向って出発したが、郊外の虹橋空港への引き込み線に専用列車を停車させ要人と面談していたとの“記録”を挙げ、機銃掃射説をありえない妄説と退ける。

 癌の末期症状に苦しむ周恩来を見舞い励ますことすらしなかった点を挙げ、毛沢東の冷酷非情ぶりを指弾する声がある一方、いや毛沢東は危篤状態に陥った周恩来を秘かに見舞い別れのことばを交わしたとの説もある。この両説について、周は76年1月7日に昏睡状態に陥り9日の午後9時に永眠。10、11日には朱徳、鄧小平以下の党幹部など1万人ほどが病院で遺体に別れを告げ、15日午後には人民大会堂で厳かな追悼式典が行われている。そのどれにも毛沢東は参加していないとし、著者は毛沢東の警護官の回想を基に、すでに毛は歩行困難であり流動食を鼻から注入する状態で周を見舞うことなど不可能と断定する。

 著者は従来の“定説”を糾し数多くのナゾを解き明かそうとするが、ナゾを生むばかり。だが多くのナゾも、毛沢東が革命家としての自らの生涯を演じ切るための小道具と考えるなら、演出が巧みなだけナゾが多いのも道理。世間は毛に翻弄されるがままだ。  《QED》