【知道中国 265回】〇九・八・仲一
愛国教育基地探訪(21)
―演出し演技する毛沢東

 北京空港への途次、早朝の天安門へ。車は西に向かって広場を進む。

 右手の天安門の壁面にはお馴染みの毛沢東の巨大な肖像画。それに正対するかのように広場には孫文の肖像画が置かれている。いつ、誰の発案でここに毛沢東の肖像画を掛けたのかは不明だが、49年10月1日の建国式典の際には、すでに、そこに掛けられていた。

 毛沢東が天安門の楼上から「中華人民共和国中央人民政府は本日、成立した」と建国を告げた瞬間、昨日までの革命の同志は一転して臣下に転落する。その時の毛の肩書きは、中国共産党中央委員会主席、同中央政治局主席、同中央書記処主席、同中央軍事委員会主席。加えるに建国直前の9月に北京で開かれた中国人民政治協商会議で選ばれた中華人民共和国中央人民政府委員会主席。天安門の後ろに広がる故宮、つまりかつての皇城に住んだ天子(皇帝)を遥かに凌ぐような権力を一手に握ったのだ。あの時、建国宣言する毛沢東の脳裏に歴代皇帝が新王朝の開基を天に告げる光景が過ぎらなかったとは、いわせまい。

 天子が住む皇城は有象無象の人民の生きる広大無辺な「俗」の世界に存在する唯一無二の「聖」の世界であり、そこは絶対聖たる天が地上に現れる唯一の場なのだ。天と地を結ぶ皇城に住むことが許されたのは、天の意思を地上に顕現することができた天子のみ。

 天安門は明と清の両王朝の皇城の正門。であればこそ、そこが皇帝の絶大的権威を人民に思い知らせるために最高の贅を尽くして造られていたとしても、なんの不思議もない。柱は朱色。欄間を飾る龍の模様も屋根の瑠璃瓦も、すべてが黄金色に輝く。清朝皇帝の詔書は黄金製の鳳凰の嘴に挟まれて天安門の楼上からしずしずと下ろされ、地上で畏まって侍す文官が捧げ持つ雲の形の盆に収まる。かくて文官の手で印刷・配布され、天下は皇帝の権威にひれ伏し、人民の生業は皇帝の威徳を享けて平穏無事に行われるカラクリだった。

 古来、天子は南面し臣下は北面する。あの時、毛沢東は、かつての皇城の正門楼上に真南を向いて立ったのだ。天子の気分に浸らなかったはずがない。彼の「革命とはメシを喰う問題」との初志は貫徹された。だが初心は忘れられがち。彼は革命を「客を招くように穏やかで慎ましやかなものではない」と形容したが、共に死線を乗り越えてきた昨日までの同志を臣下と従え、眼下の広場で歓喜する30万人余を目にすれば、彼の心もまたいつまでも「穏やかで慎ましやか」ではいられないのも道理だ。成功には失敗の芽が隠れている。

 1970年、この場所で隣に立たせたエドガー・スノーに向かってフルシチョフ失脚の原因は個人崇拝をしなかったからだと語った後、毛沢東は「少しばかり」と断りながら、「個人崇拝は必要だ」と口にしたとも伝えられる。おそらく皇城正門の天安門の楼上に真南を向いて立てば、人は地上、つまり天下万民の生殺与奪の権は我が掌中に有りと心地よく傲然と思い込むに違いない。毛沢東のみならず、鄧小平も江沢民もそうだったはずだ。

 今年10月1日の国慶節、久々に軍事パレードを行うとか。莫大な軍事予算を尽くした超近代装備の人民解放軍を麾下に置けば、胡錦濤もまた「穏やかで慎ましやか」ではいられないだろう。権力も、欲望も繁栄も限界に向かって一瀉千里に肥大する。今の中国がそれだ。ならば彼らの原点たる延安から考え直してみるのも一興と、2年前に始まった愛国教育基地探訪旅行の振り出しに戻り、この国の歩みを再考したいと思い立った・・・。(転進)  《QED》