【知道中国 193回】〇八・十〇・念八
『封神演義』
―抱腹絶倒・痛快無比・荒唐無稽・妖艶華麗・残忍非情・猟奇無残―

  『封神演義』上・中・下(講談社文庫 1988年) 

 時は商から周へと続く易姓革命の時代。名君の誉れも高い紂王は千年の齢を経た女狐が化けた姐己を迎えて以来、政治を顧みない昏君(バカ皇帝)となり果てた。軍師に姜子牙(太公望)を得た周の文王は紂王討伐の旗を掲げる。だが壮図半ばにして世を去る。

 後継者で息子の姫発は武王を名乗り、亡父の志を実現させんと決然と起つ。一方、商の都の朝歌では、女狐の化身に篭絡された紂王はグニャグニャの骨抜き状態。政治を忘れ老百姓(じんみん)を顧みることなく自堕落な日々を送り太平の夢を貪るのみ。

 「紂王討伐」を掲げ諸侯は次々に決起し、軍装を整え、盟主と仰ぐ武王が待つ会盟の地・孟津へ粛々と、時に猛々しくも軍馬を進める。商周革命の決戦の火蓋が切って落とされた。

 歴史上に実在した(とされる)人物に新たな性格と能力と役割を与え、これに下界と仙界とを自由自在に行き来する仙人、道士、妖怪などを配し物語は千変万化してゆく。
 「乾坤尺」「番天印」「定海珠」「降魔杵」「飛刀」「乾坤圏」「落宝金銭」「陰陽鏡」「照妖鏡」「掌中目」「風火輪」「雷公鞭」「白光」「黄気」「毒痘」「万里起雲烟」など、字ズラから想像するだけでもゾクゾクしてくるような空想上の秘密兵器がワンサカと登場してくるから痛快だ。

 陰謀渦を巻き、軍師・姜子牙は秘術を尽くす。英雄豪傑は死力を振り絞り奮戦、激戦。
 やがて革命は成就され、時代は商から周へと移る。“中華式永久革命”のはじまりハジマリ。

 歴代王朝は自らの統治の正統性と正当性を明らかにするために、前王朝の興亡の姿を歴史として編んだ「正史」と呼ばれる欽定歴史書を残す。当然のように史実に一定の政治的・思想的・倫理的、有態にいうなら儒学的判断・細工が自らの都合に合わせて手前勝手に施されている。一方、『三国演義』『楊家将演義』『隋唐演義』など演義と呼ばれる伝統的形式の歴史物語があるが、なによりも時代の流れ、読者の好みのままに絶え間なく書き改められ、新しい話題を加え潤色され、物語は変幻自在に転変し、融通無碍に膨れ拡張する。演義とは、見方を変えれば老百姓の見果てぬ夢が盛り込まれた歴史物語ということになる。

 無名の、無数の老百姓が編者であり、時代と歴史とに寄せる彼らの「願望」「怨念」「悔恨」「省察」「宿願」「野望」などが編纂の基準となる。時代が変われば彼らの思念も嗜好も変化する。有為転変する時代に合わせ、演義という彼らの歴史物語は次から次へと無限に書き改められ自己増殖してゆく。『商周演義』の別名で呼ばれる『封神演義』もまた、そんな性質を持つ物語の1つ。だから『封神演義』にも、老百姓たちの融通無碍で豊穣・華麗・勇壮・残酷・非情・冷淡極まりない発想と想念とがギッシリと詰め込まれているのだ。

 周王朝没落から春秋戦国へと時代が続き、秦が天下を統一し、始皇帝の死がもたらした混乱から劉邦と項羽の死闘を綴る漢楚軍談が飛び出す。さらに英雄割拠の三国の時代から暴君の名を恣にした隋の煬帝の爛熟たる王朝絵巻が紡がれる。かくして時代を一気に20世紀にまで下れば、そこに蒋介石と毛沢東の激闘物語が待っていた。真実から壮大なホラ話が踊りだし、新たな時代は老百姓にとっての新たな英雄と痛快無比な物語を生みだすもの。

 そこで『春秋戦国志』『隋唐演義』(共に『封神演義』と同じ安能務訳で講談社文庫)を読み継いでみれば、無限に紡ぎだされる荒唐無稽なホラ話や壮大なウソに驚かされるだけでなく、それこそが彼らの得意技であることに気づかされるに違いない。 《QED》