民主党勝利で政局は収放するか          塚本三郎

 参議院選挙を控えて、各メディアの報道記事は、安倍内閣の各大臣に対し、不信を暴き
立てる「集中豪雨」の如きすさまじさだった。よくもこれ程に、非難材料の揃った人達を
大臣に並べたものだと呆れる。その人達は、人格的には問題を抱えていることは、事実か
もしれないが、一国の為政者として、失格に催すると論ずるには、余りにも大げさではあ
るまいか。
 僅か半年の間に、四名の大臣を交代せしめた例は過去にない。今後も稀有の例となろう。
 もしかすると、この人達の大臣登用は、人事を超えた「天の為せる業」かもしれないと、
勝手に、今後の政局を空想してみたくなった。

政権交代の試み
 敗戦後、六十余年間、片山哲、芦田均、そして細川護熙、羽田孜の僅かの非自民党内閣
は出現したものの、この人達の内閣は、野党らしい施政に手を付ける以前に、政権を放棄
せざるを得なくなっている。
 従って約六十年に及ぶ日本の政界は、保守政権を国民が選んだと言えよう。
 日米安全保障条約の改正を巡って、社会党から、西尾末広氏を中心とする人々が、分裂
して民社党を結成した。昭和三十五年のことである。その後、自民党から一部の人が離脱
し、新自由クラブと称した。更に社会党から社民連の分離が在った。しかし、これ等の動
きは保守政治をゆるがすには至らなかった。
 分裂はしなくとも自民党内にも、社会党内にも、政権交替の必要を痛感する人達は相当
数に及んだ。この人達は、民社、公明、社民連、新自由クラブの人々が集まり、そして自
民、社会両党内の同憂の士と組んで、政界の再編をめざそうと、さまざまの形で政権交代
への模索があった。
 自民党に対立する反対政党として考えられた日本社会党では、政権を託する訳にはゆか
ない。彼等は社会主義を標摸しつつも、ソ連に心を寄せる容共集団で、そこから一歩も踏
み出せないことを自他共に認めていた。
 まず議論を詰めるよりも、今の社会党及び自民党から踏み出した我々小集団が、一つに
まとまり、公明党を加え、自民から更なる脱党者を誘い出そう。そんな考えで新しい政権
を模索した。「政権を執らない政党は、ネズミを獲らない猫と同じだ」。これは西尾末広氏
の残した言葉である。野党が種々と政権獲得の努力を重ねた。
 「政争は水際まで」、この信条は民社党の党是であり、西尾氏の政治哲学でもあった。野
党議員には、行政に対する認識と経験不足が致命的であった。少数野党が、政権党の主張
する、外交や防衛に協力することは、あたかも政府権力者にすり寄る罪悪であるかの如き
心理を抱かせていた。対決が先で、国益があとまわしの風習が身についてしまっていた。
 ゆえに、いざ具体的に政治理念、政策と詰めれば、依然として空理空論と云うべき、ス
ローガンから脱皮する度胸に乏しかった。
 その根本には、憲法に対する「信仰とも言うべき感情」を抱いていたからであろう。

民主党の勝利は神の配剤か
 参議院選挙の結果、民主党が圧倒的多数を占めた。党首小沢一郎氏は当然の如く言う。
「政権を渡せ」と。参議院と錐も国政選挙であり、しかも「天下分け目の戦い」と称した
のは安倍首相自身である。今度の選挙は、「安倍をとるか、小沢をとるか」の戦いだと、う
かつにも叫び続けた。その結果、国民の審判は、小沢民主党に圧勝と云う結果を示した。
 このような結果をもたらした原因は、両党首の訴えとは異なった意味で、自民党に、集
中豪雨の如く露呈した各大臣の金に対する不用意と、不謹慎な言動があった。
 国民は自民党に対して、おきゅうをすえる為の投票行動をとった。
 各メディアは、民主党は「敵失」による勝利と評した。
 それをしも、小沢氏は「天下を譲れ」という民意だと解し、主張することは、一応の理
はありそうにみえるが、自制心の欠如とも見受けられる。
 ともあれ、民主党の圧勝は見事と言う他はない。されど第一院としての衆議院の議席は、
民主党の勝利以上の、小泉自民党の勝利であったことも、また明白である。
 国政の両院が全く異なった勝負を、しかも一年以内に示したことは、神のイタズラか、
はたまた、神の底知れない、眼に見えない手による配剤なのか。
 昨年、小泉前首相は参議院で郵政民営化を否決されて、既に賛成と決した衆議院を解散
して、改めて民意を問うた。これは小泉のわがままの、八つ当たりとも見えた。
 それでも合法的に圧勝した。その結果、安倍首相は、小泉勝利の御利益のゆえに、各重
要法案を次々と決定し、法制化せしめたことは見事である。
 各野党は、その行動を逆手にとって合唱して、うまくメディアを動員せしめ、参議院選
挙では、その行為が、安倍内閣の、独断独走の悪行と断罪された。

民主党は本来の任に戻ろう
 衆議院は自民党が、参議院は民主党が、一年以内の選挙でそれぞれが圧勝した。敗戦後
六十年の歴史の中では類例を見ないことである。民主政治が世論の政治とあらば、衆院選
も、参院選も世論の結果と受け止めるべきだ。
 参議院の存在価値は、先ず衆院の行き過ぎを抑え、足らざるを補うところに、第二院と
しての存在価値がある。
 民主党は、先ず独自の法案を参議院に出すと発表している。ならば、今までに通過成立
した法律について、より万全の法とすべく、また国民の良識から判断して、成る程と感心
すべき「修正案」を提出して欲しい。提出した限り、衆議院で成立せしめなければならな
いから、不満であっても、与党が賛成し得る内容でなければ提出した意味がない。
 何れもその審判を、やがて国民自身が判断すべきことは言うまでもない。
 唯々対決し、喧嘩を売って、政局を混乱に陥れ、衆議院を解散に追い込まんとすれば、
審判者は国民であることを忘れてはならない。
 民主党の使命は、優位に立った参議院で、まず国政に関する基本問題を提議すべきだ。
 衆議院の任期は最長で四年であり、平均の寿命は解散を含んで二年半から三年であり、
更にいつ解散されるかも計り知れない。
 参議院が一期六年であり、解散が無いこと、それは国家の基本を、長期的視野で論ずる
ことを期待、予定しての任期とみるべきである。それが参議院の存在価値だ。
 小沢民主党代表にそのような視野と、展望を持つことを我々は期待する。

「心ならずも」の政治を収放
 与党内にも、野党内にも、幅広い思想の議員を抱えている。突き詰めて論ずれば、本来、
自民党に居るのが不自然な議員、また逆に、民主党に居るのが不自然な議員も相当数居る。
 選挙地盤は、出身地域、出身業界等々、各種要件が重なって、当選を勝ち得たのが今の
国会議員である。「心ならずも」と評しては失礼であるが、俗論をもって言えば、現在の国
会議員には現住所(現在の所属政党)と本籍地(思想を同じくする政党)の異なった議員
が少なくない。特に定員が一名である衆議院、そして参議院の一名区では顕著である。日
本の議会政治そのものが、「心ならずも」が余りにも多すぎる。選挙地盤の不都合が原因で
ある。
 また、「心ならずも」の最大の問題は、日本国憲法である。一番重く、一番の政治生命の
鑑であるべき憲法そのものが、約六十年間、「心ならずも」日本国家に君臨して来た。これ
は不謹慎な表現ではない。
 憲法の前文と言い、第九条と言い、文言と全く相反することを、日本政府は行なって来
ている。国会議員もまた、憲法の「条文を騙し」、己の「眼と魂」を騙して、信じ従ってい
るかの如く、議会活動に尽くして来た。一部の政党を除いてではあるが。
 民主党が、今後の活動から参議院で多数を得たことを武器として、自民、公明両党への
攻撃の城として、与党に対立して一歩も引かず、協力を果さなければ、自民免は憲法五十
九条を伝家の宝刀の如く使用するであろう。衆議院で可決し、参議院でこれと異なった議
決をした法律案は、衆議院で出席議員の三分の二以上の多数で再び可決した時は法律とな
ると明記している。
 自民党が、参議院での反対の議決を踏み越えて、この条文を度々活用すれば、徒に政局
の混乱を招き、やがて国民から痛烈な批判を受けることになろう。
 小沢民主党が政局の混乱を招くことで、衆議院解散の突破口とねらうであろうが。しか
し、百戦錬磨の手練手管の自民党は、その機を逆用することも充分考えられる。
 国会の混乱は、やがて政権を巡っての一大波乱となり、やがて思想的に「心ならずも」
の議員を中心に、政界再編への第一歩と収赦されてゆくかもしれない。
 それは天の配剤か。徒に、鬱積した政局に対して、唯単に、そノの場しのぎの妥協を重ね
るよりも、思い切った大波乱、即ち政界の再編成が期待される。その時には自民、民主、
共に、思想の違いを明確にして、二派、三派に分かれればよい。
 国家の基本論争は、今後、憲法の改正に在るが、自民党も民主党も、その論争の中身は
今日までは、「事なかれ主義の立場」 に立っての改憲の論争であり、是非であった。
 今回迎えた、衆、参議席の与野党逆転は、人知を超えた審判の結果を迎えた。
 禍転じて福と為す。
 願わくは、憲法を巡って、各国会議員が、愛国心を吐露する舞台として欲しい。時間を
かけ、議論を重ねれば、やがて国会議員の意志は、所属の党派を超えて、国家の為にと収
赦されて来ることが期待出来る、それこそが衆議院は自民、参議院は民主、各第一党の違
いを示された、神の為せる業であり、新しい日本の再出発となるかもしれない。
 所属政党についても、憲法についても、「心ならずも」六十年の、やり過ごした不誠実を、
一挙に、本心に「収欽」出来ることを願って止まない。
 当面する最大の課題である憲法の改正が、国会議員の三分の二を必要とするならば、む
しろ今回は大連立こそ望ましい。
 日本の国会は、無理をして、二大政党を求める必要はない。
民の声は神の声である。
                             平成十九年八月下旬